声を上げられないマイノリティへの配慮が欠如した社会
以前、母の日はキライだという記事を書いた。
母を幼いころに亡くした私にとってはツライ日だ。
そして、そのツライ母の日が過ぎると、次にやってくるのは父の日だ。
父の日も同様にキライかというと、実はそうでもない。
母の日は、母を亡くした悲しみが掻き立てられて嫌いだが、父の日にはそのような感情は湧かない。
父には一度も会ったことがないし、会いたいとも思わない。
私には父はいない。
それで良い。
さて、ちょっと話は変わるが、皆さんは幼稚園や小学生のころに母の日に母親への感謝を綴った作文を書いたり、母親の似顔絵を描いたりしたことはないだろうか?
お子さんがいらっしゃる方は書いてもらった経験はないだろうか?
父の日に父親に向けてでもいい。
私は忘れもしないが、小学5年生のとき、母親への感謝の気持ちを作文に書き、しかもそれを授業参観で発表するということをやらされた。
小学5年生の時には既に私の母はいない。
与えられた課題は母への感謝の気持ちを原稿用紙2枚に書いてくることだった。
そして、それを授業参観で全員が発表する。
私は、死んだ母への感謝の気持ちを正直に書いた。
そして、母が見に来ることはない授業参観で発表した。
私以外が発表している時は、私語をする人はおらず、みんなが発表を静かに聞いていた。
しかし、私の発表中だけは少し様子が違った。
誰の母親か知らないが、授業参観に来ていた母親たちのうちの数人が、教室の後ろで何かひそひそと話をしていた。
何を話していたかはわからない。
そして、あの時の担任の顔は今でも忘れられない。
あれが苦虫を噛み潰したような顔というのだろう。
簡単に言えば担任はドン引きしていた、そして怒っていた。
授業参観の後、職員室に呼ばれ、担任に怒られた。
なぜあの場で死んだ母親の話をするのか?と問いただされたわけだが、正直私にはなぜそんなことを聞かれるのかさっぱりわからなかった。
あなた(担任)が母親への感謝の気持ちを書いて来いと言うから書いたのに何がいけないのか?
小学生の私に担任にそんなことを聞き返す勇気はなく、ただ黙っていたら、担任に「亡くなった母親ではなく、今母親代わりに面倒を見てくれている施設の職員さんへの感謝を書けばいいでしょう。」と言われた。
まあ、大人になった今なら、担任の言わんとすることも分からなくはない。
しかしながら、小学5年生の当時の私はそんな考えに至ることはなく、ただ言われたとおりに亡き母への感謝を書くことしかできなかった。
私が担任の考えを理解できなかったのと同様に、クラスのみんなは当然生きている母親への感謝を書き、それを授業参観の場で母親に聞いてもらえるという状況の中、ただ一人、死んだ母への思いを綴り、その母に聞いてもらうこともできないのにみんなの前で発表させられる私の気持ちなんて、きっと誰も理解できなかっただろう。
最近は至る所でダイバーシティーが大事ということで、マイノリティーへの配慮がなされるようになってきたと思う。
少し前にもニュースか何かで、同性愛の人たちなど性的マイノリティの権利を訴えるような内容の記事を読んだ。
配慮がされるようになってきたとはいえ、まだまだマイノリティって理解されない部分が多い。
しかし、マイノリティでも、自分たちの思いを社会に向かって訴えることができる人たちはまだ良い。
時間はかかるかもしれないが、少しずつ受け入れようという雰囲気ができてきていると思う。
かつての私のように、声を上げることさえできないマイノリティの声にならない声にも、耳を傾けてくれる社会になると良い。
そのために私も小さいながらも声を上げていこうと思う。
小学5年生の私と同じようなつらい思いをする人がいなくなるように。